カンボジア・プノンペン キリングフィールド

カンボジアの血塗れた歴史〜キリングフィールド〜

Pocket

ポルポト・クメールルージュとキリングフィールド

カンボジアを悪夢に落とし入れたポル・ポトとは

ポル・ポトとは1975年4月17日にカンボジアで大量虐殺共産革命を起こした中心人物です。彼の一族はカンボジア王室と関係がある家柄でした。当時カンボジアには民族主義が台頭しアンコールワットに象徴されるクメール王国の栄光を復活させようという機運が高まっていました。彼はこのような雰囲気に大きく影響された様です。エリートコースを歩んだポル・ポトは小学校時代、支配階級であるフランス人やベトナム人官僚の子供と一緒に授業を受ける事になります。その後一族のコネを使い奨学金を得てフランスへ無線工学を学ぶため留学する事になります。この留学中にポル・ポトは共産主義に傾倒していき毛沢東を崇拝していたそうです。帰国後に教師となった彼は教師仲間で革命理論を推進します。その後ポルポトは、中国の支援を受けて、カンボジアの社会を破壊し純粋な共産主義社会に変えようとして革命を起こしました。国を掌握した後は教師仲間までも死を持って断罪してしまいます。ポルポトは、教育を受けたことがない農村部の青年で軍隊を組織します。この時代カンボジアでは人口の8割が貧困に喘いでいました。その原因は全て都市住民のせいで苦しみが蔓延していると青年軍隊を洗脳します。彼は労働者が上に立つ社会の為に都市生活者の財産は没収されるべきだと考えました。全ての人にこれまでの信仰文化を捨てさせ、クメールルージュ「ポルポトの軍隊」に服従洗脳しようとしたのです。

なぜ多量虐殺が起きたのか?

ではなぜ大量虐殺が起きたのでしょうか。ここでポル・ポトの歪んだ性格が顔を覗かせる事となります。彼自身、国家から奨学金を得て留学したにもかかわらず反体制的運動に参加した経験から、自らの政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧しました。医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され次々と殺害されました。中にはメガネをかけているだけで処刑された人もいたそうです。

1975年の革命と多量虐殺が行われた場所、キリングフィールド

1975年にポルポトの軍隊がプノンペンに入ります。彼の軍隊はクメールルージュ・赤いクメールと呼ばれました。ここにおいてのクメールとはカンボジアの中心的民族で赤は共産主義を表しています。軍隊はプノンペンを制圧し48時間以内に学校・会社・宗教施設・娯楽施設・病院・工場・警察署を封鎖し市内から全ての人を強制退去させ、プノンペンの人々は家族はバラバラにされました。わずか3日の間に町から人が消えたと言われています。

人々は集団の農場と呼ばれる場所で昼夜を問わず休みも食事も与えられず強制労働させられました。ポルポトは純粋な共産主義を信奉し、労働者が上に立つ社会を目指しました。都市生活者のマルクスでいうところのブルジョア達から財産は没収されるべきだと考えました。
内戦内紛やベトナム戦争でアメリカの爆撃も受けていた為、国力が低下していたこともありクメールルージュの革命は成功してしまいます。

次にポルポトは計画の邪魔になる人々全てを抹殺し始めました。それは自分の家族も例外ではなかったそうです。結果、3年8カ月と20日の間におよそ300万人もの人が虐殺されました。その虐殺の舞台となったのがカンボジアの各地にあるキリングフィールドです。今回私達が訪れたキリングフィールドでは2万人が殺されたそうです。悪夢のような現実です。

ちなみに、現在のカンボジアの平均年齢は25歳だそうです。クメール・ルージュの虐殺でカンボジア国民の3分の1以上が命を落としたからです。確かに街で見かけるお年寄りの数は少なかったです。カンボジア人の大らかで明るい姿を見ているとなかなか想像出来ませんが、40代以上の人は大量虐殺を経験してきた人たちということです。

惨殺の舞台となったキリングフィールド

トラックの停車場

キリングフィールド・トラックの停車場

1978年、ここはトラックの停車場として使われていました。毎日300人程の人達が搬送され50〜70人が処刑されたそうです。この施設は壁の高さが2.5mあり、500m離れた所に軍事キャンプがありました。壁の外では、兵士が脱走者はいないか24時間監視していました。

騒ぎが起きないように見張り役が人々をうまく騙していたので、人々は自分たちが処刑される為に移動しているとは知りませんでした。当時は周辺住民も中で何が行われているか知らなかったそうです。

暗く陰鬱な拘置所の標識

キリングフィールド・暗く陰鬱な拘置所の標識

クメールルージュによって輸送されてきた人達は着いたその夜に一人づつ処刑されました。時には次の日の夜へ延期されることもあったようですが、その間は粗末な木造の建物で過ごしたそうです。建物は厚い二重の壁で出来ていて窓はありませんでした。1975年4月17日の時点で市内に居た人達を新しい人もしくは4月17の人々と呼び、クメールルージュの敵として扱ったそうです。罪がない人には「自分はアメリカのCIAだ」等と嘘の供述をさせ死刑を執行していました。

刑執行人の事務所

キリングフィールド・刑執行人の事務所

キリングフィールドには当時の建物が残っていません。後の人々が建物を壊し資材に使ったそうです。クメールルージュの処刑の事務管理は細かく、時には事務所で処刑される人自身が事務手続きをさせられたそうです。処刑を執行していた兵士の平均年齢は17歳だったそうです。クメール・ルージュには洗脳された子供の兵士が沢山いました。

化学薬品保管庫

キリングフィールド

クメールルージュは食事にDDT(かつて使われていた有機塩素系の殺虫剤・農薬で発癌性があるとされている)を混入させ人々を処刑しようとしました。食事からは酷い異臭がしていたそうですが、空腹の収容者達は我慢出来ずに食べてしまった様です。食べた人達は直後に墓穴に転がり落ち死にました。更に上からもDDTが撒かれたそうです。また普段は鳥を屠殺する為に使用される砂糖ヤシの葉のギザギザの部分で収容者の喉が切られ処刑されていたそうです。

450体の遺体が発見された大量埋葬地

キリングフィールド・450体の遺体が発見された大量埋葬地

クメールルージュ撤退後、24ヘクタールの面積に129の墓地が発見されました。ここには2万人の犠牲者が埋められていたそうです。一日に約300人が処刑されていました。墓は死体から出たガスのせいで盛り上がり、辺りには悪臭が立ち込め、墓の一部は内部が見えていたそうです。

武器保管庫

キリングフィールド

クメールルージュは銃による処刑はしなかったそうです。理由はコストがかかる為。処刑は安価な鎌、斧、ナタ、ハンマー、荷車の車軸という原始的な方法で行われていたそうです。原始的な道具で殺される苦しみを想像すると胸が痛み吐き気がします。

P1200645

実際に使用された処刑器具です。

中国人墓地

キリングフィールド・中国人墓地

元々中国人墓地があったこの場所には、今でも虐殺された人々の骨が埋まっているそうです。カンボジア人以外にもオーストラリア1人、フランス2人、アメリカ6人、計9人の西洋人が殺されました。

ロンガンの果樹園

キリングフィールド・ロンガンの果樹園

ポルポトは完全な自給自足を目指しました。米の収穫を3倍に増やすように命令を発し、都市部の人達は朝から晩まで集団農場で強制的に働かされました。
労働者は物を持つことを禁じられ、許されたのはお椀だけでした。労働時間は12時間以上で休みなし、食事は2回のお粥のみ。労働者達は飢えと病気で次々と死んでいきました。

166人の首なしの死体の大量埋葬地

キリングフィールド

収容者以外の仲間である軍人も見せしめの為に殺されました。ナチス・ドイツや旧ソ連や北朝鮮のような悲惨な状態ですね。仲間ですらお互いを見張り密告させ合ったようですね。クメールルージュの兵士達も疑心暗鬼に陥っていたのでしょう。洗脳されていなくても、恐怖によってナチス時代のゾンダーコマンドと同じように虐殺を行っていた普通の人達も沢山いました。ここには166の人首なしの死体があったそうです。

大量埋葬地キリングツリー

キリングフィールド・大量埋葬地キリングツリー

女性は殺される前に衣服を剥ぎ取られ、中には強姦された人もいました。乳児達も母親の目の前で情け容赦なく殺されていきました。赤ん坊の両足を掴み頭を木の幹(キリングツリー)に打ち付けたそうです。木には大量の血や脳みそが付着していたそうです。吐き気がする程残忍で、まさに地獄絵図です。また誰かが殺されると、復讐する者を残さないために一家皆殺しにされることも度々あったそうです。

マジックツリー

キリングフィールド・マジックツリー

菩提樹はマジックツリーと名前が付けられていました。ここでは処刑の断末魔が外部に漏れない様にカモフラージュの為、木にスピーカーが吊るされ大音量の革命歌が流されていたそうです。

慰霊塔

キリングフィールド・慰霊塔
キリングフィールド・慰霊塔にある頭蓋骨

ここには発掘された頭蓋骨が大量に展示されていました。毎年5月20日には慰霊祭が開催されるそうです。かつてはアンカーの日と呼ばれていました。
ここに展示されていた大量の頭蓋骨には正直かなり動揺しました。こんな大量の頭蓋骨を今まで見たことがなかったし、どのようにして殺されたか考えただけで胸が痛みました。

キリングフィールドを訪れて感じたこと

今回、キリングフィールドを訪れて虐殺の恐ろしさを肌で感じました。また、普通の人間でも特殊な環境下では残虐になれてしまうのだなと思いました。元クメールルージュのメンバーには今でもポルポトに畏敬の念を抱く者が少なくないそうで、彼らは過去の傷口は開くことなく忘れようと主張しているとのことです。最近、「アクト・オブ・キリング」という映画を見ました。こちらは共産主義のクメールルージュの虐殺とは反対で、インドネシアで1965年に起こった右派勢力による「共産党員狩り」と称した大虐殺9月30日事件がテーマとなっています。この時、100万人以上が虐殺されましたが、この時虐殺を犯した人間が未だに裁かれることなく、虐殺された遺族のすぐ近所で悠長に暮らしています。この映画は、それらの虐殺者にその当時の出来事を再現して演じさせるというドキュメンタリー映画です。虐殺者は今でも自分が行ったことに対してある種の誇りを持っていますが、彼らは役を演じて行く中で、自分のした罪の深さに直面し、次第に恐怖に飲み込まれて行く姿が描かれていました。非常に興味深い内容でした。

アメリカは当時は米ソ冷戦の真只中だったので、ソ連・ベトナムと敵対していたポル・ポトを支援しています。またベトナムを支持している反ポル・ポト抵抗組織の議長ヘン・サムリンは好ましくないという事で、中国・タイもポル・ポトを支持していました。クメールルージュだけでなく、ベトナム戦争もアフリカの内戦も東ティモールの独立をめぐるインドネシア軍の虐殺など、多くの争いの背後には欧米諸国や大企業の政治的な思惑や利権の影が背後にあるように思います。また、それらの思惑に操られ、まともな感覚を無くしてしまう人間の危うさも感じています。キリングフィールドで見たような出来事は常に自分の隣り合わせにある出来事で、被害者にも加害者にもなり得るかもしれません。虐殺は今も尚世界中で行われています。このような悲劇を今後無くしていくためには、教育や生活水準の向上、正しい情報の共有、社会構造の根本的な見直しなど課題は山ほどあります。ここキリングフィールドで恐ろしい歴史を肌で感じ学ぶことも、一つの重要な役割を果たしているのではないでしょうか。
ただ、キリングフィールドには不思議と穏やかな空気が流れていて、死者達の霊は既に苦しみから解放されて天に昇ったのではないかと個人的には感じています。

関連動画

Informationキリングフィールド

入場料 USD5
Pocket

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *